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世の中はどーでもいいことが9割

どーでもいい日常のことを書き連ねてあります。

数値は概念、数字は表現形式

思考

先日、私は10進数にとても強く影響を受けた考え方をしていたのだと実感させられたのでメモ程度に書きます。

 

コンピュータの世界は2進数で出来ているというようなことは聞いたことがあると思います。1と0がひたすら並んでいる様は自分とは関係の無い世界だと思われるかもしれませんが、あの1と0の列が表現しているものは実は私達がコンビニで見る値札の数字と何も変わらないのです。何を言っているのかというと売値10円の10と2進数の1010は同じものなのです。そりゃあ進数変換できるのだから当然だ、と思われるかもしれませんが、そのときに10進数の「10(じゅう)」というものを基準にしていませんか?

 

その「10(じゅう)」とよばれる値は10進数が慣用されているから「10(じゅう)」なのであって、本当はその値に呼び名なんて無いんです。あるのは概念だけ。しかし、それでは不便だから10進数を用いて「10(じゅう)」と読んでいるだけなんです。

 

この話を聞いたとき、自分は10進数でしか数字を捉えていなかったことを実感させられました。みなさん、数字に対してどのような考え方を持っていますか?

行動は作業を含むが作業が行動だとは限らない

思考 メモ

今回はレトリックというか、自分の中で言葉をどのように定義するかという話です。

 

行動というのは指向性があり、目的がある行為だと思っています。例えば、こうしてブログを書くことも行動といえるでしょう。そして、ブログを書くためにタイピングしているのが、作業ということになります。

日常生活だと通勤電車に乗る、ATMでお金を引き出すというのは作業にあたります。これらも会社に行く、必要な金を手元に置くといった目的はあるのですが、「そうしないといけないからそうする」という受動的な要素がやや強い気がしています。したがって行動ではありません。

 

そして、行動と作業、この2つはバランスが大事です。行動が過多になるとすべての作業に意味があることになり、頭と体がフル回転し続けるので凡人はいずれ心か体が壊れるでしょう。やはり単純だったり、ルーティン化された作業が必要だと思うのです。

 

一方で作業か過多になると目的意識は無いし、自分の進みたい方向性も見えていないので生活にハリがなくなり、退屈な日々になってしまいます。

 

最近の自分は作業が多く、行動が足りていなかったということに対しての反省を込めてこのような言葉遊びともとれる記事を書きました。

ということで駄文失礼しました。

文章の価値を定量化

前回「新生活のお供に機嫌関数を」は機嫌を関数化してみましたが、今回は文章の価値を関数化してみようという試みです。

 

文章の価値 = (情報量)×(情報の質)×(文章の面白さ) / {(文章の長さ)×(文章の読みにくさ)}

 

情報の伝達手段としての文章で大切なことは情報量と情報の質です。それを短い文章にまとめているものが良い文章ということになります。そして、短くとも面白い文章が求められます。面白い文章だと読むのが苦ではなくなりますし、情報の吸収率も良くなりますよね。逆にだらだら長い文章、読みにくい文章はNGです。

 

ただし、これはネット上での情報については近似出来ているかもしれませんが、文学的な要素が求められる文章については当てはまらないことが多くなります。

 

例えば、小説から重要な情報を引き出したら文量は10分の1以下になるでしょう。はたして要約された小説が面白いかどうか。想像はつきますよね?

 

気をつけなければならないのはこの関数を適用して良い対象にだけ使用することです。「読みにくい文章を読むことの大切さ」 で書いたようにわざと理解し難い文章を書くことで自分たちの利権を守ろうとしている人たちもいます。

 

基本的には、自分の書いた文章を振り返って評価するときにこの関数を使うくらいで良いのでは、と思っています。

新生活のお供に機嫌関数を

思考

Evernoteの整理をサボっていたため、大量のメモを整理していると「機嫌関数」なるものが書かれたメモが見つかりました。

 

これは去年のいつだったか、「機嫌良く生きていきたい」「せめて自分の機嫌がどのように変化するのか予測したい」と思って要素を分析したときに書いたものです。当時の感覚と今の感覚では一致しない部分もあるので、ひとまずサンプルを書くと

 

機嫌の良さ = {0.4×(仕事)+0.2×(趣味)+0.3×(人間関係)+0.1×(恋愛)}/{疲れ)

 

のような式になります。ここでは四則演算のみの記述にしましたが、もっと細かく考えれば、疲れは蓄積するものなので積分が必要になるとか、分子の各項にはプラス面とマイナス面があり、機嫌の良さに対する影響がことなるので分ける必要があるなど改善点は山ほどあります。

 

しかし、この式の最大の意味は、式を作るために自分の感情分析を行うことにあります。感情というものは完全に定量化してコントロールすることは不可能に近いと思いますが、大まかにでもこれを捉えることで少し感情に乱れがあっても具体的な対処法が考えやすく、対処できるという自信がさらにリカバリしやすい状態に導いてくれます。

 

心の乱れが生じやすい新生活、機嫌関数を作ってみてはいかがでしょうか?

考える力を身につけるためにアウトプットする

思考

日本では1年間に7万冊もの本が出版されています。

また、毎日毎日ネット上には無数の記事が作成されています。

この中に自分が欲している情報は果たしてあるのでしょうか?

そもそも何のために読むのでしょうか?

 

スマートフォンタブレットの普及は「文章を読むこと」と「画像・映像を見ること」に割く時間を飛躍的に増大させたと思います。中には積極的に発信を行っている方もいますが、記事の作成にはPCを使用することが多く、スマートフォンタブレットは基本的にインプットの道具として使われます。

インプット量が増えると知識が増え、賢くなった気がしますが、大切なのは「得た知識を使えるようにすること」です。そのためにはアウトプットが欠かせません。記憶が定着はインプットよりもアウトプットの回数に依存します。また、インプットされた情報をアウトプットの際に再編集することで理解を深め、理解の不足を補うためにさらなるインプットを行います。この一連の過程には思考というプロセスが含まれていることがとても重要です。

ショーペンハウアー読書について (岩波文庫) の中で「読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく。」と述べていますが、これは読む(=インプットする)ことに偏りすぎていることが問題であり、基本的にはインプットは悪いことではありません。考える力を身につけるためにもアウトプット(≒ 思考)する癖をつけることが重要です。

読みにくい文章を読むことの大切さ

思考

「読みにくい文章を読むことの大切さ」とタイトルは付けたものの、文章は文学のように表現そのものに価値がない限り、読みやすい文章が理想だと思っています。

 

では、なぜ読みにくい文章を読むことが大切でしょう?

 

それは読みにくい文章を読むことで、その分野の知識を深めることができ、また情報にふりまわされずに済むからです。読みにくい文章はどこにでもあるのではなく、偏在していて、次の3つに分類できます。

 

1.文章が下手

まず、そもそも文章が下手ということがあります。これは査読が甘いメディアや自由に発信できるブログやフェイスブックに見られます。考え方がしっかりしていて、有益な情報を発信する人は文章が下手ということは少ないので、読む価値は低いです。しかし、たまに言っていることは良いのに文章が下手というパターンもたまにあるのでそこは確率論です。各自の時間の余裕に合わせて目を通せばよいと思います。

 

2.読まれにくくしている

政治、行政などの文書は非常に読みづらいことが多いです。専門性の問題もあるでしょうが、一般市民に理解されにくくすることで生じる(行政側の)メリットの問題もあるでしょう。しかし、自分の仕事、勉強、研究に関わる部分は知らないと損することもあります。また、制度の穴を見つけるとビジネスチャンスにつながる可能性もあります。

 

3.専門用語が多い

科学論文などがそうですが、専門用語が大量に使われているために読みにくいことがあります。これは専門知識を身につけなければ読むことができないので、非常に勉強になります。時間を短縮したい場合には知り合いなどで詳しい人を探して解説してもらうのも良いでしょう。

 

 

私自身も読みにくい文章はついつい嫌厭しがちですが、その文章を読むことで何が得られるのかを考えながら、たまには挑戦してみようと思います。

メトロポリスとメガロポリス

地理 調べもの

他の方のブログを読んでいたら、東京をメガロポリスと言っていたのですが「メガロポリス」の使い方を間違えている気がしたので調べてみました。

 

メトロポリス(Wikipediaより引用)】

(メトロポリス(Metropolis)とは、国または大きな地方における経済・文化の中心であり、かつ、国際的な連携のハブとなるような大規模な都市のことである。日本語では中心都市あるいは大都市と訳されることがある。代表的なメトロポリスとしてニューヨーク、ロンドン、パリ、東京などが挙げられる。多くのメトロポリスは、その周りの都市と相互に連結して大都市圏を構成する。)

 

メガロポリス (Wikipediaより引用)】

多くの大都市が深い関係をもって帯状に連なっている地域のこと。フランスの地理学者ジャン・ゴットマンが、政治、経済、文化の中枢的機能の集積において、メトロポリス(大都市、首都)以上のものであることから、メガロポリス(巨帯都市)と命名した。

 

世界のメガロポリス

ニューヨークを中心にボストンからワシントンD.C.までの大西洋沿岸の都市群

東京 - 名古屋 - 大阪(厳密には南関東1都3県 - 兵庫県)に至る、新幹線や在来線、高速道路や一般国道などで結ばれた太平洋ベルト地帯東部までの都市群

  • ブルーバナナ

西ヨーロッパのメガロポリスであり、イギリスの北西イングランドからイタリア北部のミラノに至る都市域

 

ミニスカポリス

高校の地理の先生が好きなもの。「メトロポリスとかメガロポリスよりも私はミニスカポリスが好きです」というのが、いつものネタだった。

ちなみに「ミニスカポリス」で検索したこんなサイトが見つかりました。

ミニスカポリス公式サイト

これに関してはノーコメントで。

 

高校の地理では「メトロポリス」は大都市、「メガロポリス」は複数のメトロポリスが大規模な輸送網でつながり、絶え間なく人やモノが行き来する、有機体のようなエリアのことだと教わりました。そして、メガロポリスは世界でたったの2つ。アメリカの東海岸ニューヨークからワシントンと日本の東京から大阪の東海道だと聞いて、日本のすごさに驚いた記憶があります。

 

改めて調べて見るとおおよそ記憶は合っていましたが、ブルーバナナの存在は知りませんでした。高校では教えなかったということは日本はその存在を認めていないということでしょうか? 確かに他の2つと違って一つの国の中には収まっていませんが、別の理由がありそうですね。